富とジェリー

富を得たジェリーは変わってしまった。

ゆとり世代が語る伝説のバンド『たま』(知久寿焼編)

知久 寿焼(本名:知久 寿明)

出身:埼玉県

担当:ボーカル、ギター、ハーモニカ、マンドリンウクレレ、コーラス

 

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※『たま』の世界観や詩は多様な解釈が許されており、以下に記述するのはあくまで僕個人の感想・考察です。

『たま』の紹介・考察記事はこちら - 富とジェリー

 

1.人物考察

知久寿焼氏ほど完成されたアーティストはなかなかいないです。

詩、曲、演奏、声、全てが織物のようにきめ細かく一つの方向性を編み出しており、そこには一分の隙もなく、露ほども過不足がありません。

内容の難解さとマニアックさが人を選ぶことを加味しても、その完全無比の様式美は、それ自体が芸術として評価されるに足るものです。

しかし、「芸術家」と呼称するよりかは、「職人」の方が彼に似合っているとも思います。

知久寿焼の恐ろしさは、本来「言葉」や「音」に落とし込めず、従来の表現形式からあふれてしまうような膨大な感受性を、きちんと作品として収め、機能させてしまうところです。

例え、希代のセンスを天賦の才として与えられたとしても、それだけでは知久さんのようにはなれません。

彼の持つ、世界に向けられたおびただしい数のアンテナと、そこから生まれる「中身」は「才能」によるものだとしても、それを受け入れる「入れ物」は「技術」として獲得されたものだと考えられるからです。

練りこまれ、そぎ落とされ、洗練された文体構造、現代音楽の域に留まらないジャンルの自由さ、ギターの異常な安定性、そして他に類を見ない声質を最大限に活かした歌唱法。

それらを追及し、維持する「職人」としての側面が支えているからこそ、奥にある「天才の感性」が輝き、彼の詩や曲は芸術と成るのです。

金を稼げるかどうかは置いておくとして、純粋に表現者としては、自己プロデュースの化け物だと思います。

次に内容・中身についてですが、柳原さんが「実存」を扱い、地球全体を舞台としているのとは正反対に、知久さんは主に「生存」を扱っており、団地などの閉鎖的な空間を舞台とします。

そこで取り上げられる一貫したテーマは、「こども」「自意識」そして「宗教」です。

彼の詩はほぼ全てが児童の目線、もしくは児童の心を残した「ぼく」の目線から紡がれたもので、「こども」ならではのセンシビティーが受信する、特に迷子や置いてけぼりになってしまった一人ぼっちの「こども」が感じる「何か」が繰り返し掘り起こされます。

それは例えば、眠れない夜や寝小便を漏らしてしまった夜に積もる虚無感や恐怖感であったり、人ならざる者の幽かな気配であったり、アリス症候群のような外界の変容であったり、目の前を横切る死の影であったり、時空を超えた共鳴であったり、リビドーの目覚めへの複雑な心理段階であったりします。

ですが、これらは厳密には「何か」がもたらす結果の描写であり、「何か」自体は言葉で定義することができません

故に、「何か」を取り巻くもの、またはそれを想起させるものを言葉として具現化し、「歌」や「物語」にすることによって、まるで虚数を含んだ方程式のように、解き明かしきれないものを導き出そうとする過程に意義と美しさを見出させています。

暫定的に「何か」を表す「X(エックス)」として用いられている単語は恐らく「かなしさ」で、この「かなしさ」を描き出すため、そして、人生が進む中で「かなしさ」がいつまでも根を張り続ける原因である「巨大な自意識」について歌うための寓話的展開が、知久ワールドの奇天烈さの正体だと思います。

「かなしさ」は「社会」が登場する前の原風景から存在するもので、人間関係に生じる「悲しさ」や「哀しさ」と同義ではありませんが、それらを包括してはいます。

特に、柳原氏が『たま』を脱退してポップス要素の穴を埋めなければならなくなった折りには、「かなしさ」は比較的噛み砕かれた「現代人の孤独」にも化けたりしています。

このあたりの自由自在なサジ加減もさすが職人です。

しかし、彼の楽曲には実は最初から、「生存する誰もが大なり小なり感じるかなしさ」とは別の知久寿焼から見た現代社会のかなしさ」が混ざっていて、その核となるモチーフが「宗教」です。

知久氏の生い立ちとの関連性はあえて割愛しますが、「ぼく」に忍び寄る得体の知れない「よくないもの」の中で、「新興宗教」だけが明確な姿と形を有しています。

「宗教」が主題に据えられることは少ないですが、どこかに宗教を通した視点が紛れていること自体が、善も悪もない「この世のスケッチ」であるはずの「かなしさの世界」(言ってみれば『草枕』で目指された世界の亜種)に、「人の意志」がごくわずかに垣間見える遠因だと思います。

また、「かなしさ」の媒介である「自意識」の巨大さが引き起こす課題について触れた詩では、「かなしさ」をメインで取り扱った詩とは違い、対人関係が勘定に入れられることがどんどん多くなっていくのが特徴です。

中期までの知久氏の詩における「きみ」は、ほぼ間違いなく自分自身のことを指しているのですが、後期には「きみ」を他者にも当てはめることができるようになっているのが最たる明かしです。

要するに、彼の楽曲群は「かなしさそのものの描出」と、「自意識」を抑制できず、「かなしさ」に囚われている「自分しか愛せない男の物語」二重構造になっていて、作家に必ず訪れる「心境の微細な変化」に関しては後者が任されることで、「かなしさ」の普遍性は守られるという分業制が図らずも敷かれているのです。

あきれ返るくらいシビアでパーフェクトだとは感じませんか。

『たま』の全盛期に0歳だった僕が言うのもなんですが、全員が傑物と言い切れる天才集団の中でも、特に知久寿焼の才能を軽んじたことは、日本の音楽業界、ひいては創作業界の汚点だと思います。

 

2.ピックアップ曲紹介・考察

『らんちう』(収録アルバム:『さんだる』)

最初期からソロ活動をメインとする現在まで、変わらず名刺代わりとして使われてきた知久氏の代表曲。

知久作品全体の空気を代弁する曲であり、この曲を聞けば彼がどういう表現者なのかが感覚的に把握できる。

故に上記の人物考察がそのまま説明になるので、歌詞考察は割愛。

楽曲的には、極めて純和風のメロディラインとアレンジが特徴で、表層的には歌舞伎や雅楽のパロディのようでもあるが、実際は似て非なる何かである。

メジャーシーンどころかインディーズ、果ては民族音楽にまで目を向けてもその源流をたどり辛い独特過ぎる作品だが、それにも関わらず完成度は非常に高く、知久氏の音楽的才能が爆発している。

桶や鍋、アコーディオンなど、『たま』ならではの楽器編成が端的に活かされている曲でもある。

無理やりジャンル分けするならたぶんヘビーメタル

 

『ロシヤのパン』(収録アルバム:『さんだる』)

恐らく楽曲的な意味での『たま』の最高傑作

こちらもジャンル分けは困難だがプログレに近い。

ギター主体で形作られる知久氏の曲の中で、キーボードの展開が不可欠な構成になっている点がめずらしい。

ソロでの演奏も素晴らしいが、四人が完璧な役割を担ってサイケな世界観を彩っているので、ギターだけだとやはり別物になる。

逆にいえば、それくらい完璧なアレンジで仕上げられた珠玉の作品。

歌詞は「こども」の出会う「性」がしみじみと暴走するほんのりラリった世界の描写で、近親相姦のイメージもちらつくが、そこまであからさまとも思えず、自慰について歌った曲である可能性が高い。

 

『方向音痴』(収録アルバム:『さんだる』)

メジャーデビューアルバム『さんだる』の一曲目を切り込むマーチ(?)。

軽快で明るく、知久さんの曲の中ではかなりポップな部類に入る。

しかし、ギロチンで切り落とされた人魚の首が人間のものなのか人魚のものなのか分からなくなるなど、詩の比喩表現は例のごとく狂気に満ちており、曲のテンションとの乖離が味わいとなっている。

この世界に居場所を見出せず、迷い続ける方向音痴の「ぼく」は、最終的に吹っ切れたように法華経を叫ぶが、皮肉としか思えない。

「かなしさ」をメジャーアルバムで最初に取り上げて提示する代表曲なので、そういう意味ではもう一つの『らんちう』ともいえる。

 

『金魚鉢』(収録アルバム:『ひるね』)

とめどなく拡大してゆく自意識とそこに乗っかる「かなしさ」を、町を飲み込む海に例えていると思われる静かで繊細な秀作。

全体が「引き算の美学」で作られているが、途中で二つに分離する滝本氏の完璧なベースライン、夕暮れ時にどこからともなく聞こえてくるおっさんの声を再現したような石川氏の合いの手など、全てが知久氏の感受性と寂しさを昇華するのに必要不可欠な役目を果たしており、最小公倍数的なアンサンブルが耳に心地いい。

リコーダーが演出する切なさもたまらない。

 

『かなしいずぼん』(収録アルバム:『ひるね』)

「かなしさ」の中に散見される数多の要素から、「恐怖」を前面に押し出した最恐ソング。

「こども」が体験する際限ない畏怖感を弾き語る知久氏の妖怪じみたボーカルと、重厚に折り重なるメンバー全員の個性的なコーラスが、聞く者の意識を遥か彼方へと誘う。

異界への扉を覗き見る禁忌であると同時に、『風の又三郎』に近い通過儀礼的な意味合いもあると思う。

また、上記の『らんちう』『方向音痴』『金魚鉢』にも登場する「魚」が、少なくともなりたいものではないことがここで判明する。

途中で挿入される石川さんの長尺の語りはLIVEごとに変化するが、そのどれもが怪談師顔負けなぐらいに怖い、怖すぎる

『たま』の幻影世界とパフォーマンスの完成形ともいえる、必聴のトラウマ曲。

 

『鐘の歌』(収録アルバム:『ひるね』)

知久ワールドの集大成。

個人的には、知久氏の作品は全てこの曲に繋がっていると感じる。

スティーブン・キングの心臓部が『ダーク・タワー』なら、知久寿焼のそれに当たるのがこの曲である。

置き去りにされた「こども」の「かなしさ」を、幻想的でありながらも「生存」の問題から目をそらさない切実な観点で歌う歌詞と、半音階が巧みに織り交ぜられた儚げな編曲との相乗効果があまりにも理想的。

知久さんが『たま』で伝えようとしていることが何であるのかがハっと解けるような大サビには感涙させられる。

また、原爆や空爆に対する鎮魂歌としても受け取れる。

 

『きみしかいない』(収録アルバム:『きゃべつ』)

ラブソングに見せかけた、自己愛と孤独について吟じたバラード。

「きみ」とは「ぼく」のことであり、他者の介在しない「きみ」と「ぼく」だけの世界、つまり「ぼくしかいない」世界が描かれる。

「かなしさ」の代表が『らんちう』『方向音痴』とするならば、「かなしさ」を感じる人間の「自意識」を俯瞰して、最もシンプルに集約したのがこの曲である。

 

『牛乳』(収録アルバム:『犬の約束』)

猫を死なせてしまった後悔になぞらえて、自分と他人の間に生じる駆け引きや愛の難しさをひも解いた曲。

このへんから「きみ」は「ぼく」だけを指すわけではなくなり、知久ワールドに他者が現れ始める(滝本氏の世界に少し近づく)。

クライマックスで響き渡る柳原氏とのコーラスのかけ合いが例えようもなく美しい

 

『あたまのふくれたこどもたち』(収録アルバム:『そのろく』)

和製ヘビーメタルその2。

知久曲で唯一ポリティカルな体裁がとられており、はっきりと新興宗教が批判される異端児的意欲作

「かなしさ」のダークな側面が頂点に達する。

 

『学習』(収録アルバム:『東京フルーツ』)

知久さんの出した一つの答え。

他者を完全に理解することをあきらめ、割り切ることで逆に活路を見出し、仲良くすることができるようになった。

常に虚無主義と向かい合い続けた『たま』、しかもその筆頭である知久氏が前を向いて歩くことを決めた大団円

 

『電車かもしれない』(収録アルバム:『汽車には誰も乗っていない』)

後期で一番プレーンな「かなしさ」の曲。

「体のないこどもたち」という歌詞が登場するので、水子が明確なテーマだという人もいるが、僕としてはそれはまずないと思う(解釈の一つとしてはあり)

知久さんが表現しているのは「実際に自分が感じられる感覚」であって、「完全な他者」である「死者」の立場に立つことはそのための例えに過ぎない。

画像引用元・権利者:たま/地球レコード