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悪役考察『ペンギン』(僕がペンギンを愛してやまない理由)後編

前編では、ペンギンも厳密には常人ではなく、『バットマン』における他のヴィランたち同様、狂気をまとった人物であることを紹介しました。

しかし、それは彼の根底にある行動原理についての話であって、いつも表立って出てくる設定ではありません。

態度がデカいわりに臆病だったり、すぐ癇癪を起こしたり、拝金主義だったり、命乞いをしたりと、その絶妙な小物っぽさも彼の魅力の一つであり、描かれ方としてはそっちの方が多いです。

 

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©『バットマン:喪われた絆』/DC Comics/小学館集英社プロダクション

 

また、彼自身も自分のことを「狂人ではない」と頻繁に口にします(しかしジョーカーから見たら間違いなく「お友達」です)。

こういうキャラクターは、どちらかといえば昔のコメディ寄りの悪役に多い気がします。

最初に僕の頭をよぎったのが、ベルギーのコミック『タンタンの冒険旅行』に登場する、ロベルト・ラスタポプロスです。

 

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©『タンタンの冒険 シドニー行き714便』/エルジェ/福音館書店

 

表面上の性格が似ているだけでなく、彼もまた麻薬・武器密輸・ハイジャックなど、何でもござれのマフィアの王であり、愛煙家、単眼メガネを着用、中年太り、表の顔は経済界の大物、鼻が大きいという点も共通しています。

ラスタポプロスが本格的に初登場した『フォラオの葉巻』の発刊が1934年で、ペンギンの初登場が1941年。

影響を受けているかどうかというよりも、こういう「マヌケなボス」という立ち位置は古今東西の活劇譚に見受けられる一つのスタンダードであり、『バットマン』も元々はライトな作風だったことを考えると、本来はジョーカーよりもペンギンの方がヴィランの筆頭になる可能性を秘めていたのかもしれません。

 

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©『バットマン アンソロジー』/DC Comics/パイインターナショナル

 

しかし、最近のシリアス重視のコミックや映画において、このようなキャラクターはしだいに肩身が狭くなってきている気もします。

例えば日本の少年漫画だったら、小物の悪役はかませ犬どころではない「一般の範疇にいる存在」として扱われ、真の悪や信念によって展開されるドラマに参加すらさせてもらえません。

ところが、ペンギンは違う。 

組織犯罪・経済犯罪のエキスパートという「能力」を備え、さらに前編で解説した過去のように、「弱さ」「滑稽さ」の根底に狂気を秘めることによって、「作中では比較的まとも」「だがお前もただものではない」という二つのポジションを両立させ、唯一無二の個性に昇華させているのです。

今の時代、第1話で倒されるような立ち位置になりがちの「古き良き愛すべき小物」が、あの狂気の王ジョーカーと立ち並んでいる。

超かっこよくありませんか?

ところで話は『ゴッサム』に戻りますが、このドラマで描かれる若き日の彼も、やはり尊敬されるために暗黒街の王になろうとしています。

 

(『ゴッサム』の紹介はこちら↓)

penguinlove.hatenablog.com

 

そのために彼は様々な人間関係をチェスのように操り、サイコパスともいえる冷徹な思考で着実に裏の世界を駆け上がっています。

他の犯罪者たちを争わせて漁夫の利を得ることが十八番なのは原作通りですが、ここで言明したいのが、『ゴッサム』での彼をよく観察すると、自分が他人に売った恩だけではなく、他人から自分が受けた恩もいちいち強調しているという点です(ゴードンに対してだけですが)。

 彼が欲しいのは地位だけではなく、ペンギンのようにヨチヨチ歩く自分を嘲笑わない、対等な人間関係なのかもしれません。

ただ、原作のペンギンは『ゴッサム』時点よりもさらに非情な男で、哀しい過去とコンプレックスを友を得ることで埋め合わせようと発想できる人間にはとても見えません。

 

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(自分と同じように身体的な悩みを抱える人間すらつけこんで利用する外道っぷり。ペンギンが愛しているのは肉親と自分だけ)

 ©『バットマン:ハッシュ 完全版』/DC Comics/小学館集英社プロダクション

 

怪人・ペンギンにとって、トラウマから来る他人への猜疑心を取り払う手段は友情ではなく、富や崇敬されることの追求であり、また、それによって逆に人の心が離れてゆくことに恐らく気づいてすらいないのです。

過去編『ゴッサム』と原作のイメージがいずれ繋がるのであれば、若き日のオズワルド・コブルポットがゴッサム・シティの頂点に立った時、果たして本当に欲しいものはその手の中にあるのか

答えはある意味分かり切っていますが、その過程には注目せざるをえません。

 

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